花色甘話―小さな花屋のバレンタイン―
１.
―――２月１４日。天気、快晴。絶好のバレンタイン日和。今日のこの日に照準を合わせ、大好きなあの人に想いを伝えるべく準備を進めてきた女子も多いはず。まさに決戦の日というわけだ。
しかし決戦の日というならば、ここ『フラワーショップ MISONO』も同様だった。
『美園花店』から沢村酒店の敷地内に移転して、初めてのバレンタインデー。去年まで一緒にこの戦いを乗り切ってきた父親は、リハビリという名の戦いに一人で立ち向かっている。優里がここで泣き言を漏らすわけにはいかなかった。
それに、優里は独りではなかった。いつも傍にいて、さりげない気遣いで支えてくれる人がいる。
優里は澄んだ青空を見仰いで、「よしっ、やるぞ！」と自分に気合いを入れた。すると後ろから、大きな手のひらで頭をふわふわと撫でられた。
「優里、がんばろうな」
「うんっ」
優里はくるりと振り向き、満開の笑顔で元気いっぱい頷いた。隆矢は眩しそうに目を細め、優里の丸い頬を優しく撫でた。
２月１４日。優里の花屋が一年で最も忙しくなる日。長い一日が、今、始まろうとしていた。
美園花店のブーケは魔法のブーケ。ここの手作りブーケを添えて告白したら必ず成就する―――そんな噂がインターネットのブログや掲示板で話題になり始めたのは、一体いつからだったろう。
ブーケの作り手である優里はそんな噂のことなどつゆ知らず、ただ相手の趣味や好みからその人となりを想像し、その人に相応しいと思うブーケを自由に拵えただけだった。
だから＜魔法のブーケ＞の噂を耳にした時、優里は大いなる違和感を覚えたものだった。
＜魔法＞なんかじゃありません、花が持つ邪気のない美しさとブーケを贈ろうとする人の深い想いが、相手の心を揺り動かすのです。優里は噂を聞きつけて訪れる人に度々そう説明したが、そういった控え目な態度が逆に噂の信憑性を煽ることにもなった。
＜魔法のブーケ＞に関する話題はその後も消えることなく、浮き沈みが激しいネット発信の流行にしては息の長い話題として留まり続けた。
もちろん爆発的なブームと呼ぶには遠く及ばなかったし、優里のブーケを求めて恋の成就を願う男女が列をなすようなことはなかった。
しかしこの日だけは別だった。言うまでもない、恋のお祭り、バレンタインデーである。
「ペーパー、よし。セロファン、よし。リボン、よし。ラフィア、よし。ワイヤー、よし。整理券、よし。準備万端！」
指差し確認をする優里に、隆矢は笑顔で「さあ、開店だな」と声を掛けた。今日は一日酒屋の仕事を休み、優里を手伝う許可を父からもらっていた。ブーケ作りに手は貸せないけれど、それ以外の客の相手なら何とかなる。
「お兄ちゃん、今日はよろしくお願いします」
ぺこりと頭を下げる優里に、隆矢は慌ててお辞儀を返した。
「こちらこそよろしくな。あんまり役に立たないかもしれねえけど……」
「ううん。手伝ってくれて、どれだけ心強いか………ありがと」
優里はそう言って、はにかむように微笑ってみせた。いつもの沢村酒店の前掛けではなく、花ばさみや軍手を収納した花屋仕様の前掛けをした隆矢が、何だか眩しく見える。
「さあ、開店だ」
隆矢の号令と共に、いつもより１時間早く「フラワーショップ MISONO」が開店した。
普段より赤やピンク系の花材を多めに仕入れ、ラッピング用のペーパーやリボンも十分用意された店内は、何だか狭く感じられる。優里は意気揚々とシャッターを上げ、外に出た。すると―――
「わわっ、いらっしゃいませ」
すでに数人の女性が、身を切る寒さの中開店を待っていた。優里は乾いた冷気を吹き飛ばすほどの温かな笑みと共に、今日一番の客を迎え入れたのだった。
「大変お待たせいたしましたっ。このような感じでいかがでしょうか」
優里が笑顔で差し出したのは、赤いスイートピーを基調にしたミニブーケ。それを受け取った女性は嬉しそうに頬を染め、浮かれた歩みで帰っていった。
まだお昼過ぎだったけれど、すでに何人分のブーケを拵えたか分からなくなっていた。目が回るほど忙しいとはよく言ったもので、ちょっとでも気を抜くと頭がクラクラしてよろけてしまう。
「優里、大丈夫か？」
花材の水揚げに精を出していた隆矢が、心配そうに見上げる。優里はにぱっと笑って「全然へいきっ」と元気いっぱい答え、次に待っているお客の注文に応対した。
どんなに忙しくても決して手を抜かない、おざなりにブーケを作らない。優里は自分に立てた誓いを厳格に守った。
客の言葉に耳を傾け、想像力をフル稼動させて相手が喜ぶブーケを拵える。それは客のためであると同時に、花という命のためでもあった。
切り花は、いわば死んだ花である。我々のために死んでくれた花である。そういった命への敬意と感謝を込めて美しいブーケを作ることが、花への恩返しでもあると優里は考えていた。
一流の料理人が素材を“成仏させる”と言うように、優里も花の美しさを最大限に引き出すことで、“成仏”、すなわち天国の花園へ送ってあげたいと願っていたのだ。
そんな優里の秘めたる想いが通じたのか、客たちはどんなに待たされても決して文句を言わず、辛抱強く自分の番を待った。
商店街の仲間たちも、自分の店があるから手伝うことはできないものの、配達の途中に「がんばれよっ」と声を掛けてくれた。
そういった人々の想いに支えられて何とか順調に進んでいたのだが、日が傾き始め、一般の買い物客が増え始めるとさすがに追い付かなくなってきた。
バレンタインの告白に添える手作りブーケを求める客とは別に、サービス用の花束を買いに来る常連さんが増える時間帯。隆矢は優里のサポートをしつつ、そういった客の相手までこなさねばならないのだ。
二人共に疲労がピークを迎えようとした時、店先から馴染み深い声が聞こえてきた。
「優里さん、こんばんは」
「あっ、有栖川さんっ」
有栖川は相変わらず夕方の商店街には不釣合いな隙のないスーツ姿で、切れ長の目を優しく細めて優里を見つめた。そして淡いピンクのリボンでラッピングされた箱を差し出して、
「優里さんにこれをお渡ししようと思って来たのですが、お仕事の邪魔になってしまいますね。申し訳ありません」
「そ、そんなことないです！ でも、あの……これって？」
「バレンタインのチョコですよ。僕の気持ちが詰まってますので」
もちろん、遠くからぎりぎりと睨み付けてくる男の存在に気付いていたが、優雅に無視する。案の定、優里はぼぉっと赤くなって、
「ぼ、ぼくに……？」
「はい、もちろんです。後で食べてくださいね」
恭しく受け取った優里は、頬を染めつつ「ありがとうございます」とお礼を言って、
「後でお兄ちゃんと一緒に食べまぁす」
笑顔でそう言って、奥の事務所へ仕舞いに行った。有栖川は苦笑を浮かべ、
「はは、お兄ちゃんと一緒に、ですか。参ったな」
もちろん、そんな無邪気なところも魅力に感じてしまうのだが。有栖川は暫しその場に佇んで、客の注文に応えようと真剣に花材を選ぶ優里の横顔を眺めた。
すると、一人の客がサービス花束を持ってきょろきょろしているのが目に入った。隆矢も別の客の相手をしているようだ。有栖川は近付いて、
「そちらの花束でお決まりですか？」
「あ、はい」
「ご自宅用でよろしいですか？」
頷く客から代金を受け取り、レジにいる隆矢の許へ。
「隆矢君、お客様からお金を預ってきたよ。この花束はどうしたらいい？」
隆矢は驚いてじっと見返したが、やがて傍らを指差して、
「ティッシュに水を含ませて切り口に当てて、そこにあるアルミ箔で包むんだ」
有栖川は言われた通りにして客に渡した。すると別の客から次々と声を掛けられる。
「お兄さん、これをひとつ」
「私はこっちの花束を二つね」
結局それから１時間ほど、有栖川は花屋の店員になって接客をこなしたのだった。
「有栖川さん、すみませんっ。あなたにこんなことを……」
客の波が去ってようやく、優里は有栖川が手伝ってくれていたことに気付いた。顔を真っ赤にして何度も頭を下げる優里に、有栖川は少し切ない笑みを向けて、
「そんなに謝らないでください。ほんの少しでもお役に立てて嬉しかった」
その言葉は嘘ではなかった。優里の傍にいて、優里を支えることができる喜び。それは隆矢の役目だと分かってはいたが、僅かでもそれを担うことができたのだから。
「また来年も手伝いに来ますよ」
有栖川はそう言っていたずらっぽく笑うと、「では、僕はこれで…」と挨拶して背中を向けようとした。これ以上ここにいたら、去るのが辛くなってしまう。すると優里は「あの…」と遠慮がちに声を掛けて、
「これ、有栖川さんに。今日のお礼です」
ミニブーケを差し出した。真っ赤なローテローゼにペッパーベリー、白いオーニソガラムでアクセントをつけた、情熱的でありながら愛らしさも備えたバレンタインブーケ。
「これを……僕に？」
「はい。今作りました。有栖川さんにはちょっと可愛すぎるかなとも思ったのですが、寒い季節には温かな色調の方がいいと思って」
有栖川は両手で恭しく受け取った。確かに、こうして眺めていると胸の奥からほんのり温まってゆく。もちろんそれは、色のせいだけではないだろうが。
「ああ……そういえば、あなたにブーケを作ってもらうのは初めてですね」
「え？ あ、そっか、そうですね………」
まだ花屋が『美園花店』だった頃、有栖川は毎日のように通ってはたった一輪の花を買っていった。
最初は偵察のつもりだったけれど、すぐに手段が目的に変わってしまった。花を買うために、優里に会うために通い続けた日々。
「ありがとう。とても嬉しいです。ああ、僕も魔法の恩恵に与れるかな」
浮かれた口調でそう言って、優里の隣で仏頂面を晒す隆矢をちらと一瞥する。案の定睨まれてしまったが、有栖川は微笑みで応えてブーケを大事そうに抱え、
「本当にありがとう。優里さん、また来ますね」
「……ちょっと待てよ。これも持ってけ」
帰ろうとした有栖川を、今度は隆矢が引き止める。ぬっと突き出した手には、赤いボトルが握られていた。
「これは……シャンパンですね？」
赤いボトルのベビーシャンパンは、沢村酒店がバレンタインの贈り物用に仕入れたものだった。むすっとした表情のまま頷く隆矢に、有栖川は困惑の笑みを向けて、
「もしかして……バレンタインのプレゼントですか？」
「阿呆かッ。手伝ってくれたお礼だよ！」
声を荒げて、ボトルをぐいと押し付ける。有栖川は笑いながら受け取って、穏やかな声で礼を言った。そして隆矢と優里をじっと見つめ、
「お陰で、素敵なバレンタインになりました。お二人も、余りがんばり過ぎないようにね。では」
粋な仕草でボトルを振って挨拶し、そのまま夜の雑踏に消えていった。
「チッ、気障な野郎だ。さあ優里、あとひとがんばりだな」
「うんっ」
溜まった疲労も気にならないほど、優里の心は明るく澄み渡っていた。空になったバケツをせっせと片付ける隆矢の背中に向かい、小さな声で「お兄ちゃん、ありがと」と感謝を伝える優里だった。
最後の客を送り出し、店内の掃除と売上の集計を終えた頃には、商店街もすっかり静まり返っていた。今日一日の忙しさや騒々しさが幻であったかのように、狭い店内に満ちる夜陰は澄んだ静寂を湛えていた。
「は〜〜、終わったぁ……」
忙しさの反動なのか、優里は椅子にぺったり座り込んで茫洋と視線を彷徨わせる。いつまでもぼぉっとしているわけにもいかないと立ち上がろうとしたけれど、四肢が自分のものでないみたいに重くて融通が利かない。
暫しそうしてぐったりしていたが、何気なく壁の時計に視線を送った瞬間、大事なことに気付いた。思わず「あっ」と声を上げ、
「もう１２時！ 今日が終わっちゃう！」
あわあわと立ち上がって、隆矢のために用意してあったバレンタインのプレゼントを抱える。
昨日の夜、眠い目をこすりながら一生懸命作ったチョコレートケーキ。恋人同士になって初めてのバレンタインだから、気合い十分でがんばったのに………
「ああ……もうバレンタインデーが終わっちゃうよぉ………」
優里はプレゼントを抱えたまま、がっくり項垂れた。現在時刻、午前０時６分。２月１５日になってしまった。
まさかここまで忙しくなるとは思っていなかったのだ。もっと早く閉店して、ゆっくり渡せると思っていたのに―――
「ふぇぇ……おにいちゃぁん………」
しかも、どこへ行ってしまったのか隆矢の姿も見えない。悲しくて悔しくて、優里は唇を噛み締めて嗚咽をこらえた。その時、
「優里、どうしたんだ？ しょぼんとして」
「おに…ちゃ……」
隆矢が笑顔でゆっくり近付く。その手には大きなマグカップが。
「ほら、優里。バレンタインだ」
「…え？」
カップを渡され、優里は両手で受け取る。白い湯気と共に濃厚なカカオの香りが立ちのぼり、鼻孔を甘く酔わせた。
「ラム酒入りのココアだ。あったまるぞぉ」
「お兄ちゃんが……作ってくれたの？」
「もっちろん」
隆矢は椅子を二つくっ付けて座り、隣に優里を呼んだ。優里はカップを抱えたまま、ちょこんと腰を下ろす。すると隆矢の腕が伸びて、腰を抱き寄せられた。
「お前は猫舌なんだから、ふうふうしながらゆっくり飲むんだぞ」
優里はこくんと頷いて、言われた通りふうふうしながら少しずつ口に入れた。まろやかな舌触りとほどよい甘さ、そしてラム酒の醺香が口内で混ざり合い、夢見心地になる。
「ふわぁぁ、おいしい……」
舌足らずな感想が可愛くて、隆矢は思わず目を細める。が、優里は急にしょんぼり項垂れて、
「お兄ちゃん……バレンタイン終わっちゃったよ。もう１５日だもん……」
そしていったんカップを置き、ラッピングした箱を黙って手渡す。
「優里、これは―――」
「バレンタインの……プレゼント。初めてなのに、ちゃんと１４日に渡せなかった……」
消え入りそうな声で告げる優里の肩をぎゅっと抱いて、
「お前らしいな。人のため、人の幸せのために一生懸命で自分のことは二の次。優里、俺は、そういうお前が好きだよ」
「お兄ちゃん……」
ゆるゆると顔を上げて真直ぐな眼差しを送る優里を、隆矢は両腕ですっぽり抱き込んだ。
「いいじゃねえか。これから俺たちのバレンタインデーは２月１５日だ。１４日は人のために、１５日は自分たちのために。な？」
優里は隆矢の胸にしがみついて、何度も何度も頷いた。隆矢の身体からは、甘いココアの香りがした。
「今日……ブーケを作ってあげた人たち、みんなうまくいくといいな……」
「うまくいくさ。優里のブーケは魔法のブーケだからな。……但し、有栖川以外だけど」
最後に本音を付け足して、隆矢は腕の中の華奢な身体をきつく抱き締めたのだった。
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