７.＜最終話＞
髪を振り乱して笑い転げた白鷺は、荒い呼吸を整えることなくぎり、と遼牙を睨み付け、
「ええ、ええ、やりましたとも。私があの堕天使にこの毒薬を盛ったのよ。何故なら―――」
「黙れ。弁解、弁明の類いは聞きたくない。そんな時間はない。私の質問に答えろ。あれは何の毒だ。解毒剤はどこにある」
白鷺はふふふ、と幼女のような含み笑いを漏らして、
「あれはウツギ科の新種ですわ。名前はまだありません。何ならあなたのお名前でも付けて差し上げましょうか。ですから当然、解毒剤もありません。残念ね。ほほほほ……」
「妃殿下……貴女という人は………」
鴇津は、噛み締めた歯の隙間から苦い呪詛を漏らした。目の前にある遼牙の背中は、ぶるぶると震えている。その心中、察するに余りある。
が、遼牙はくるりと振り返ると、
「鴇津、何をしている。早くそれを研究所へ。そして何とか解毒剤を調合するよう頼み込んでくるのだ。私は瑠羽の傍に付いている」
「か、かしこまりました」
鴇津が去った後を追うように、遼牙も無言のままそこを去ろうとした。白鷺は目を剥いて噛み付く。
「わっ、わたくしがやったのよ。毒を盛ったのよ。早く捕まえなさいよ。そして死刑にすればいいじゃないっ」
「お前を処刑すれば瑠羽の体内から毒が消えるというなら、何度でも首を斬ってやる」
遼牙は、怒りの感情すら磨滅した無表情で、白鷺に凍った一瞥を投げつけ、
「下らぬ女。処刑の価値もない」
そして足早に瑠羽の許へ向かった。
「あっ、陛下。ここから先は―――」
「構わぬ。原因が判った。伝染病などではない。瑠羽は毒を盛られたのだ」
「ま、まさか……」
「今研究所で、毒薬の分析と解毒剤の調合を進めている」
医師は額の汗を拭うと、遼牙に向かって深く頭を下げた。
「左様でございますか……では陛下、どうぞお傍に。我々の力では、もう……」
遼牙は思わず医師の胸倉を掴んで強く問い質す。
「もう、何なのだっ」
「もう、成す術はございません。あとは、解毒剤が間に合うのを、祈るしか………」
「ばかなっ」
遼牙は寝室に飛び込むと、瑠羽が寝かされている寝台に駆け寄った。
「瑠羽、瑠羽っ」
「遼牙様……」
鞘葉は必死で、瑠羽の燃えるような額を冷やしていた。が、悲愴な形相で縋りつく遼牙を見て何かを覚ったのか、涙を堪えつつその場を去った。
部屋は、遼牙と瑠羽の二人きりになった。
瑠羽の容態は、先刻より悪化していた。白くひび割れた唇は苦しそうに開いたまま、酸素を求めてはあはあと喘いでいる。時折四肢は痙攣し、喉の奥ではぐるぐると不気味な喘鳴が鳴っている。
「瑠羽、るうッ」
ぽたぽたと、瑠羽の頬に雫が落ちた。遼牙ははっとして涙を拭う。ばかな。何を泣く？ 瑠羽は助かる。決まっているではないか。泣く理由などない、あるはずがないっ。
「頼む……助けてくれ、誰か……誰か………」
神でも悪魔でも堕天使でもいい。今瑠羽を助けてくれるのなら、喜んでこの魂を引き渡そう。遼牙は叫んだ。
「連れて行かないでくれ！ この子をっ。これは私の命だ、分かたれた魂だ！ 神よ、御慈悲を！」
すると、その悲鳴にも似た叫びに応えるかのように瑠羽の唇が震えた。
「………きさま、りょ……きさ………」
「瑠羽、瑠羽っ、気付いたのかっ」
半開きの瞼の奥で、濁った瞳が微かに動いた。遼牙は瑠羽の手をぎゅっと握ると、必死に呼びかけた。
「瑠羽、私だ、分かるか？ もう少しの辛抱だ。今、薬を調合している。それを飲めばすぐに良くなるからな」
「りょ…きさま……りょうきさま………」
遼牙の言葉が届いているのかいないのか、瑠羽はただひたすら遼牙の名を繰り返す。
「私はここにいる。ここにいるよ。ずっとお前の傍にいる」
「りょ…きさま、ぼく……わるい子でした。ひるもよるも、ずっと……そばにいてほしいって……神さまにおねがいして………わがままな……ことを……だから」
瑠羽の瞳に涙が浮かんだ。目じりからはらはらと零れて、枕を濡らす。
「だからこれは……神さまの罰……我がままなぼくへの………ごめ…なさい……りょうきさまぁ………」
「瑠羽……瑠羽……違うんだ、お前は……悪くない………」
遼牙はもう、涙を堪えることができなかった。それだけではない。立っていることもできなかった。がくりと膝を着いて、寝台の端にすがりつく。
「りょうき、さま……ずぅっと……おそば、に………」
「いる。ずっと傍にいる、私は…………」
その時、絶えず苦しそうだった瑠羽の呼吸が穏やかになった。震える唇が言葉を絞り出す。最期の言葉を。
「りょ……きさま………愛、し――――」
こふ、と小さな息を吐き、口の端から白い泡が溢れた。濁った瞳はもう微動だにせず、ただ宙に向けられている。
「るう……るう………」
遼牙は、がくがくと震える身体を叱咤して立ち上がり、瑠羽の身体を揺さぶった。しかし、何の反応もない。遼牙が持ち上げた弾みで首がかくん、と折れた。
「う……うぅ………」
遼牙は我を忘れてその身体を掻き抱き、獣めいた呻き声を上げつつ蜂蜜色の髪を、柔らかな頬を撫でる。
「うぅ………ぅ……うああああああああーーーーーッ」
「遼牙様っ、どうされたのですかっ」
「来るなぁっ、誰も来るなぁッ！」
鴇津の呼びかけに絶叫で答えると、瑠羽の身体を、魂の抜け落ちた亡骸を抱え上げて頬擦りし、そのまま部屋をぐるぐる歩き回る。
「これは私のものだ……これは私のものだ……誰にも渡さん………」
眼を爛々と輝かせ、低く呟きつつ部屋中を徘徊する遼牙の姿に、理性の片鱗も認められない。
「瑠羽、瑠羽、済まなかったな。今日は淋しい思いをさせた。そうだ、一緒に食事をしよう。中庭の東屋で。瑠羽の大好きなチキンを用意させるから。機嫌を直しておくれ」
遼牙は腕の中の嘗て瑠羽だったものに話しかける。
「もう叱ったりしないぞ。木登りだって好きなだけしていい。寝坊しても構わない。お菓子だっていくら食べてもいい。だから瑠羽、機嫌を直して起きてくれ……瑠羽、瑠羽、瑠羽っ」
遼牙は瑠羽を抱いたままがくりと膝をつき、天に向かって吼える。
「何故だッ、何故この子が……神よ、あなたの正義はどこにある、あなたは何をしているのだっ………私を…………」
遼牙は訴えた。魂を込めて。
「私を……代わりに……召し上げてくれ…………」
その時、瑠羽の身体を金色の淡い輝きが覆い始めた。
「な、なんだこれは……」
その輝きは次第に厚みと色彩を増し、遼牙が目を開けていられないほどの光輝となった。
「まさか……」
遼牙はふらふらと立ち上がって、瑠羽の輝く身体を寝台に横たえた。すると、複数の光の帯が瑠羽の身体から放射されつつ舞い上がり、寝台ごと包み始めた。と同時に、どこからともなく清澄な鈴の音が。
―――リ……ン、リ……ン………
その、神聖にして精妙な響きに遼牙は思わず跪き、敬虔な祈りを捧げる。神に、ではない。瑠羽の“守護天使”に。
―――聖守護天使よ、どうか瑠羽に承認を。光態（オル）を与え給え
「ああっ」
瞬間、途轍もない閃光の塊りに襲われた遼牙は、眩しさに耐えられず目を閉じた。額の奥に鈍痛が灯る。そしてこわごわ目を開けると、そこには―――
「瑠羽………」
金色の光彩をまとった瑠羽が、ぼんやりと目を開けていた。遼牙の呼びかけに応えて、ゆっくり顔を向ける。
「遼牙さま……ぼく………」
「瑠羽、ゆっくり起きてごらん」
まだ状況が呑み込めないのか、ぼうっとして辺りに視線を巡らせたものの、遼牙の言葉に如何なる時でも忠実な瑠羽は、言われた通りゆっくり起き上がろうとした。
両肘を支点にして上半身を起こす。すると、ばさ、と大きく空気が鳴って、白い羽根が数枚舞い上がった。
「え……？」
激しく困惑する瑠羽。しかし遼牙は優しく微笑んで、
「大丈夫。そのまま起き上がりなさい。何も心配は要らない」
瑠羽は頷いて、よろよろしながらも起き上がった。そしてようやく気付いた。さっきの羽音の正体に。それは―――
「ぁ………あああああぁ………ぼく………」
自分の背から生えている、真っ白な羽が起こしたものだったのだ。
「りょ…きさま、ぼく………」
遼牙はゆっくり瑠羽に近づいて、その頬を両手で包むと、
「瑠羽、お前は＜覚醒＞したんだよ。守護天使の承認を得ることができたのだ」
遼牙の穏やかさとは対照的に、瑠羽は歯をガチガチと鳴らして蒼褪め、恐慌状態に陥った。
「い……いやぁぁぁ……ぼく、ぼくは……どうして……なぜ………」
「落ち着きなさい、瑠羽。ここには私以外誰もいない。いいか、お前は一度死んだのだ。そして蘇った」
「死んだ……僕が………」
「左様。アム・アザゼルが羽と光輪をまとった天使に最も近い姿、すなわち＜光態（オル）＞への変容を遂げるには、各々の守護天使の審判を受けねばならないのだ。そしてよいか、その審判を受けるには、一度死ぬ必要があるのだよ」
「あ……じゃあ、アム・アザゼルか確かめる手っ取り早い方法っていうのは―――」
遼牙は頷いた。
「そうだ。あの偽神官が言っていたのは、こういうことだったのだ。死んだのち直ちに審判が始まり、＜光態＞に耐えられると認められた者のみ蘇ることができる。瑠羽、お前は認められたのだ。だから―――」
瑠羽は蜂蜜色の瞳からとめどなく涙を溢れさせ、祈るように手を組んで遼牙に懇願した。
「では遼牙さま……僕を、僕を殺してください………」
「馬鹿なことを申すなっ、何故お前を」
「だって、僕は堕天使の種族。あなた達の敵なのです。審問所へ引き渡されて処刑されるぐらいなら、あなたの手で―――」
「馬鹿者っ」
遼牙は最後まで言わせず、瑠羽の腕を乱暴に引き寄せて抱き締めた。ばさり、と羽が鳴る。と同時に得も言われぬ芳香がたちのぼり、遼牙の鼻孔を酔わせた。
瑠羽の身体からいつも仄かに漂っていたジャスミンの馥り。そうか、あれは瑠羽の＜芳気の帯＞だったのか。聖守護天使がその遍在を教えるための、目に見えない芳しい馥りの帯。
「誰が審問所などに渡すものか。お前はずっと、ずっと私の傍にいるのではなかったのかっ」
「でも、でもっ。もし見つかったら遼牙さままでお咎めを……」
瑠羽は悲壮な決意をその面てに滲ませて、遼牙の胸に縋りつく。
「僕は幸せでした。あなたに逢えて、あなたに愛してもらえて。もう、十分です……」
「嫌だ」
「遼牙さまっ」
「もう二度と、あんな過ちは犯したくない。愛する者をこの手で……瑠羽、よくお聞き」
遼牙は痛みに耐えるように眉根を寄せると、ためらいながらも口を開いた。
「私は……母を殺したのだ。自らが即位するために」
「りょ…きさま……」
「美しく、聡明な女性だった。私を生んだ後は審問所管轄の収容所に幽閉され、一生をそこで過ごすことが強制された。私は年に３度、母に逢うことを許された。
そのたびに母は、私のために編んだ外套や、私への想いを綴った覚書を渡してくれた。そして必ずこう言った。宿命に屈せず、堂々と顔を上げて生きてゆきなさい、私はいつもあなたのことを想っている、と。しかし―――」
痛い、苦しい。いつの間にか遼牙の呼吸は激しく乱れ始めていた。彼は今、自分の傷を自分で抉っているのだ。だが伝えねばならぬ。同じ過ちを犯さぬためにも。
「しかし父が死に、私がこの国の王という地位を継がねばならなくなった。影道の人間が一国の王となるには、多くの禁忌と責務が課せられる。私は中央神殿庁の命により、神官と審問官の立会いのもと、自分の母を自らの手で処刑することとなった。
母は全てを察し、黙って私の前に首を差し出した。私は……私は剣を振り上げ、母の首を斬り落とした―――」
「ああぁ……」
瑠羽は必死で、遼牙の目から溢れる涙を吸い取った。この人が抱える悲しみ、痛みを少しでも我が身に引き受けたい一心で。
「もう嫌だ。神殿庁や審問官どもの言うなりにはならん。愛する者を守るためなら、私は神にも歯向かってみせよう。何が全智全能だ、正義だ。神の名の下に、どれだけの無辜の血が流されただろうか。アム・アザゼルは呪われた種族だと？ 呪われるべき人間は他にいくらでもいる。だから瑠羽よ、自らを恥じるな、周りを恐れるな。私がいる。これまで通り私の傍にいて、その愛らしい笑顔を見せてくれ」
「は、はい……お望みのままに、遼牙さま」
二人はしっかりと抱き合った。互いを二度と離さないという強い決意を込めて。
「あ、羽が……」
背中の羽が、いつの間にか消えていた。光輪も。瑠羽は不思議そうに背中を見つめている。
「そうだ。一度覚醒してしまえば、あとは自分の意思で＜光態＞を召喚することができる。逆に言えば、お前が召喚しない限りバレることはない、絶対にない。これは私とお前しか知らない秘め事だ。分かったね」
「はい、遼牙さま……」
遼牙を見上げてゆっくり頷く瑠羽。その唇を上から塞いできつく舌を絡める。
「ん………ふ……ぅ」
生まれ変わった瑠羽の、しかし以前と変わらぬ甘い唇を味わいながら、遼牙は不思議な感慨に浸った。
父の気持ちが、今なら解る。自分に影道という茨の宿命を強いた父を、嘗ては怨んだこともあった。しかしその父と同じ道を歩もうとしているのだ。
―――見守ってください、私と瑠羽を……
この先、どんな困難が待ち構えているかも分からない。しかし今は、愛する瑠羽の柔らかな唇に溺れていたい、遼牙はそう願わずにはいられなかった。
（Fin）
＊読了ありがとうございました。第２部もよろしくお願いいたします。
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