悲劇のあと
＜1＞
あからさまな好奇心に湧く複数の視線にさらされ、由季はいたたまれず目を伏せた。するとそれを合図にしたかのように、矢継ぎ早に質問が飛んでくる。
「ほんとに双子なの？ あんまり似てないねえ」
「志季の方がお兄さんなの？」
「双子だからお兄さんも弟もないんでしょ？」
二卵性だから一卵性ほど容姿は似ないんだよ。うん、志季が兄だ。志季の方が先に生まれたからね───返す言葉はあるのに、この状況に対する戸惑いの方が勝ってか、なかなか口から出てこない。
『縁（ゆかり）ファーム』という名の農園。無人の駅から30分近く歩いて辿り着いたこの場所に、志季はいた。どうやらここで、共同生活しつつ野菜を作って生計を立てているようだ。
「ほらほら、いっぺんに喋らない」
そう言って諭すのは、農園の責任者だという財前（ざいぜん）という青年だ。年齢はおそらく30代半ば。そして、志季や沙里奈と同じ施設の出身だという。
施設を出た後働いて溜めた金でこの農園を開き、引き取った子供たちと一緒に暮らしていた。志季や沙里奈のように、施設を出た人間を雇い入れているようだ。
「似てなくても双子だ。で、俺が兄だぞ」
志季が代わりに答える。すると「へええ」とか「ほお」と感嘆の声とともに、揶揄する声が上がる。
「なんか志季、えらそう」
「うるせえぞ、勇太」
10歳くらいの勇太少年と志季が楽しげに言い合い、そこに沙里奈も参加する。まだ共同生活に加わってひと月程度だろうに、すっかり打ち解けているようだ。
「騒がしくて悪いねえ」
財前が申し訳なさそうに詫びて、頭を掻く。190センチ近くはあるだろう大柄の身体に、筋肉の鎧をまとっているが、不思議と威圧感はない。全身から人のよさが染み出して、気付けばこちらもつい笑顔になっている、そんな人物だ。志季や沙里奈の信頼を得ているのも頷ける。
「いえ、こちらこそ突然お邪魔して」
由季が殊勝に頭を下げると、財前はそれ以上に頭を低くして、
「いやいや、こちらは大歓迎だよ。ただ部屋がいっぱいでね。申し訳ないけど、志季と一緒の部屋に泊まってもらっていいかな」
「もちろんです」
由季がかぶせ気味に応えると、志季が小さく舌打ちするのが聞こえた。その隣で沙里奈はなぜかにやにやしている。
「それじゃ、そろそろ夕食にしようか。みんな、手伝ってくれ」
子供たちの「はーい」という元気な声が、ログハウスの高い天井に響いた。
あんな大勢で食卓を囲んだのは初めてだった。全員で準備して、全員で片付ける。由季はお客様扱いだったが、それが少し淋しかった。
そして入浴を終え、やっと、ようやく志季と二人きりになれた。しかしそれは由季にとって、試練の時間の訪れでもあったのだ。
「……ご飯、すごく美味しかった。特に野菜が」
窓辺に寄せた寝台の上で、夜空を眺める志季におそるおそる声を掛ける。志季は窓の外に視線を据えたまま、
「当たり前だ。獲れたてだからな」
「そ、か。みんなで丹精込めて育てた野菜だね」
会話の糸口が、うまく掴めない。今まで自分は、志季とどんな会話を交わしていただろうか。必死に思い出そうとして、途中で気付いた。
かつて志季の部屋を訪れていた時はいつも言葉少なで、沈黙に身をひたすような逢瀬だった。意味のある会話をした記憶がほとんどない。にもかかわらず共に過ごした時間は濃密で、これまでの人生で最も充実が感じられた。
「兄さんは、ここで農作業を？」
「ああ。日の高いうちは外で働いて、あとの時間は書いてる」
「書くのはやめてないんだね。よかった」
由季は正直な気持ちを吐露した。自分には文学作品を、ましてや現代詩を評価する素養もないけれど、志季が送ってくれた詩集『失はれた半身』は、これまで読んだどんな文学より感動した。“感動”という安っぽい表現しかできぬ自分に苛立ちつつ。
「兄さん……」
志季が窓の外から視線を剥がし、ゆっくりと由季に向き直る。途端に由季の心臓は早鐘を打ち、何かから逃れるように目を逸らした。
何から？ 無論、志季という磁力の源から。そして会話に逃げ込んだ。
「あの、財前さんていい人だね」
「ああ。でも、ただのいい人じゃないぞ。施設を出た後、名のある暴力団の準構成員になってる」
「えっ？ 意外……でもないのか。あの体格なら」
「まあな。それで一度、短期間だが刑務所にも入ってる。そこで、色々考えたらしい。施設を出たはいいが、行き場のない人間の受け皿になろうと、この土地を買って農園を開いたのが8年前だな」
人あたりのいい笑顔の奥には、浄化されることのない悲哀や苦悩があるのかもしれない。だからこそ、自分のようになって欲しくないとここを開いたのだろう。
「兄さんはなぜ、ここに？」
志季はいったん目を逸らしたが、すぐに視線を戻し、
「ここを選んだのは俺ではなく沙里奈だ。財前さんに以前から話していたらしい。いずれここの世話になると。あいつは分かってたんだよ。俺が耐えられなくなると」
「何、に？」
「お前との関係に」
母の葬儀の夜、狭い倉庫の中で時間に追われるように身体を繋げた。そして志季の最後の言葉───『ジ･エンドだ』。終わりを確信した、重い重い呟き。
「……でも兄さんは、また会ってくれた」
「本当は、二度と会わないつもりだった。でも、沙里奈がこれでいいのかと」
「彼女が？」
「ああ。これまではずっと、由季の方から手を伸ばして、由季の方から求めてきた。一度くらい、自分から手を伸ばしてみたらどうだ、って」
「それで、あの手紙と本を」
「ああ」
由季はすとんと肩を落として項垂れた。
「なら、彼女には感謝しなくては。お陰でこうして会えたし、ちゃんと謝ることもできる」
「謝る？ お前が？」
訝しげに問われ、由季は何度も頷いた。すると志季は眉間を寄せて、
「なんでお前が謝るんだ」
「なんでって、決まってるじゃないか。僕はその、兄さんを無理やり……」
ここまで言えば当然分かってもらえると思った。しかし志季の眉間の皺は深まるばかり。もしかしたら、いや、きっとそうだ。自分の口から言わせることで、罪の深さを自覚させようということだろう。由季は覚悟を決めた。
「僕は兄さんを無理やり抱いた。それだけでも決して許されないことだけど、手紙を読んで、僕の罪はさらに深いものだと気づいた。施設長の男が兄さんにしたのと同じことをして、兄さんに二重の傷を負わせてしまったんだ。今さら謝ったところでどうにもならない。したことを帳消しにはできないけれど、でもとにかく───」
「お前、ちゃんと手紙読んだのか？ 本も」
苛立たしげな志季の声が肌に突き刺さり、由季は思わず顔をしかめた。
「も、もちろん読んだよ」
すると志季は、呆れたように天を仰いだ。
「なるほど。単に読解力がないだけか」
「な、なんだよそれ！」
由季の抗議には構わず、志季は切れ長の目をさらに細めて睨んできた。
「で、謝ってどうするんだ」
「どうするって……どうにもできないよ。僕は、兄さんを愛することをやめられない。これからもずっと好きだ。以前のような肉体的な関係を求めることはしないから、こうして会うことを許して欲しい」
懇願して項垂れると、志季が寝台を下りて近づいてきた。そして、反対側の壁に寄せられた由季の寝台に膝をつき、由季の上に覆いかぶさるようにして唇を重ねてきた。
あまりに唐突で、予想もつかない志季の行動に、由季は無防備をさらす。口内に侵入した甘い舌、熱っぽい吐息は、嘗ての逢瀬を思い出させるのに十分すぎるほど鮮やかな感覚を刻んだ。
身体の芯がじわりと濡れ、皮膚の下で血がたぎるのが分かる。唇と舌がほどけ、舌先を繋ぐ細い粘糸が切れた時にはもう、由季の息は上がっていた。右手を左手を、左手で右手を抑えるようにして自らを掻き抱き、恨めしげに兄を見上げる。
対して志季は、たった今濃密なキスを仕掛けてきたとは思えぬほど冷ややかに、射し込む月光すら温かく感じられるほど冷ややかに由季を見下ろしていた。彼は明らかに、怒っていた。
「な…んでこんなキスを……。我慢、できなくなるだろっ……」
口をついて出た恨み節を、志季は冷たく跳ね返す。
「知るか。我慢するんだろ。施設長の男と“同じように”無理やり抱いてしまったことを悔いて、もう二度と抱かないと。殊勝な心がけだ」
「なんで……そんな言い方するんだ。これじゃまるで───」
「お前があまりにバカだからだ。俺が手紙と本に託した想いを何ひとつ解っていない」
「手紙と本、『失はれた半身』……」
「ああ。お前は俺の、失われた半身だと書いたはずだ。ひとつになるのが当然で、ひとつになりたいと思った。出会った瞬間から、お前のことを激しく欲した。……ったく、なんでここまで言わなきゃわかんねえんだよ。施設長と同じ？ 笑えない冗談だ」
ストレートな言葉に喜ぶより先に面食らった由季は、涙目で訴えた。
「だって兄さんは僕のことを憎んで、恨んで……」
「ああ。正直今だって憎らしい。この馬鹿弟」
罵倒されたのに、なぜか胸が熱くなる。言葉の奥で鼓動する想いを、今、ようやく理解することができたような気がする。
それでもまだ、由季は臆病さを捨てきれなかった。こわごわと上目遣いで志季を窺い、
「嫌じゃ……なかった？」
「嫌じゃない自分が嫌だった。お前との交わりを欲している自分が惨めだった。お前がいつか、俺の真実を知って俺の元から去っていくのが怖かった。それが、全てだ」
「兄さんの真実を知ったら、僕が去っていくと？」
そんなわけないだろうという訴えを言外ににじませて言うと、志季は背中を向けてぽつりと呟いた。
「お前みたいに綺麗な人間には、分からねえよ」
こちらに向けられた背中は丸まっているからなのか、陰翳のせいなのかひどく脆弱に見えて、由季はたまらず抱き着いた。そして首筋に顔をうずめ、ゆっくりと言葉を吐き出す。
「だから兄さんは、僕に父との関係を強いた。僕を“汚す”ために」
「……ああ」
「それなら、これで良かった。兄さんの不安を払拭するためなら、僕は何度でも父と交わったよ」
「俺を、恨んでいないのか。お前に近親相姦と母殺しという途轍もない十字架を背負わせた俺を」
「恨んでない。ただ、愛してる」
由季は即答を返すと、志季を背後から抱き締めたまま体重をかけて、ベッドの上に押し倒した。
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